円卓にて
そのテーブルからは父も母も遠いのだ
でもって父も母もおこげを前に美味しいねなどと
箸でつついて笑い合っているのだ
円卓にて、息子が「きー」と言っている
我の世界から消えてくれるなと
ちいさな本気のきもちを込めて
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年末に何もなかったので大丈夫だと思っていた夫が
ここにきて胃腸を壊しました
結構酷い感じだったので胃カメラでもしないといかんのではないかと
思ったのですが
お医者さんが必要ないと言った通り薬でなんとかなりました
でもまあ休んでもらう意味もあってその期間に一度だけ
食事を作らず中華料理を食べにでかけたんですね
そうしたら両親が円卓のおかげで
いつもの食卓からしたらだいぶ遠くにいるのが
腹がたったらしく、冒頭のように息子が「きー」といったんです
「しー!」なんてやるけどまあ聞かないので
テーブルの上の小龍包を食べながらカナダのチャイナタウンを
思い出すとか
おこげを食べながらこれが好きだった祖父を偲ぶとかの
感傷にひたる余裕がありません
でも、なんかね、それでもいい
夫と私の間にこの小さい人の顔がちょこんと覗いている
というこの景色が
なんともハートの内側から沸き出すように温かい気持ちを
くれるのです
ジョン・ライドンが、アリアップの子供を引き取るまで
何かが欠けている、と感じていた何か
それがただ隙間を埋めるというには有り余る感じで
そこに存在しているさまがいい
気がつくと寝る前に
「今日も幸せだったな」
と呟く事も増えました
ふと好きで読んでいたファッション誌のフェミニズム特集に
目を通したんですが、ご意見番の女性が
周りが「結婚しないの」といったり母親が「孫の顔をみたい」と
いうのにうんざりだという女性に
それは周りが「女の幸せは結婚と出産と育児」という風潮に
ながされているからで、母親もそれに乗っているだけかも
と回答していたんですが
親に関しては私、うーんちょっと言い過ぎじゃないか?と
思うようになりました。
なんかこう、祈りみたいな気持ちもあると思うんですよね
小さい人を胸に抱き指を握られた時のあの充実を
ぎゅっと胸が搾られる喜びを
言葉に喩えて表現するのは不可能で
だからこそ、感じて欲しいもどかしさから言ってしまうことも
あるんだろうと
赤ちゃんとの暮らしは私には最高です
私は子育てに関する自分の文章は一番は産むことに不安があって
決断しかねる女性に対して書いているんですけど
フェミニズムの名の下にこういう文章を書けなくなる日が
来てしまうのでしょうか
いい控えるかもしれないですね、何故って私が結婚後
子供がいなかった三年間、本当に子供をどうこうって言われるの
殺意を抱くほど嫌でしたから
でも本当は自分の人生に起きた経験として
それぞれがそれぞれの生き方を語って尊重できたら
それが一番いいですよね
「女の幸せ」でなくて「私の幸せ」として語る
でもつい、眠る息子に話しかけてしまいます
頭を撫でながら
「いつかアナタが人の親になったら、
この気持ちを知ってください」と。
果たしてアタシは将来息子が「子供なんか要らない」と言ったとき
今感じている愛おしさを否定されたような気持ちになるのを
グッとこらえて彼の幸福を願う事ができるのでしょうか・・・?
いや、やるよ、やってみせるとも
幸せを願う親だもの
鑑定を再開して2週間くらい経ちました
鑑定と同時に新しく導入したい事とか育児とか
色々な事がこなしきれずにいることに悩んではいますが
少しでも「仕事をしている」という実感で精神が安定しております
メガネ先生にも「しばらく通院をお休みしますか?」といわれました
もしバランスをとって仕事ができるようになったら
先生に卒業を申し出たいと思っています
でも焦っては駄目だし、うまくやる方法は見つかっていないので
「絶対」と思わずに取り組んでみようと思います
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