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2015年11月24日 (火)

おじいちゃん

おじいちゃん
その一報は弟からの電話でもたらされた。
「じいちゃんが死んだって」
いつかくるとは思っていたが、実際きてしまうと震えが出た。

その1時間前に母から赤ちゃんとペットという企画をテレビでやるよ
と牧歌的な電話をうけたばかりで何だこの落差。

聞くと母が帰宅すると家に祖父がおらず、風呂場が真っ暗なのに
スリッパが風呂場にあったとかで確認したら祖父が湯船で
息絶えていたのだという

実家に向かう電車の中、ずっとアタシは祖父が苦しんだのではないか
と胸を痛めていた。苦しかったのではないか、助けを呼べず
寂しかったのではないか、そう思うととにかく切なくて悲しかった。

しかしその日は祖父に会えなかった、祖父は警察署で検死に回され
自宅には若い刑事が数人で深夜まで検分と聴取にきた
私は終電まで立ち会った。

刑事はやたらと風呂場にあった祖父のパンツにこだわり
昇天の地となった風呂場でいい大人たちが真面目な顔で
パンツパンツと言っているのはシュールだった。

聴取は祖父の人生を振り返る事からはじまった。
本人がいない場所で全てが過去形で語られだした時
ああ、祖父はいないんだとじわじわと感じだした

祖父はその月の初めにこけて顔に内出血があったので
両親が虐待を疑われたのではないかとこわばったが、
自宅で亡くなるとこれくらいの検視がつくものらしい。
翌日には死因が心不全で事件性がないと確認され安心した。

身体が湯につかっていたのと解剖とで亡骸が長く持たない
とかで葬儀は間をあけずにおこなわれた。
最初に身体を洗う儀式があるのだが、この儀式のあいだ
いつも葬儀屋という商売を尊く思う。
祖父は丁寧に身体を洗われ、まるで生きているようだった。

アタシは顔の内出血をみつめていた
きっとショックをうけるのでおさまるまでは会わないほうがいい
と母が心身の弱った私に気を遣ったので丸一ヶ月以上会わなかった
でも、これがなかったらもっと直近で会っていたかもしれない

傷を隠した結果、祖父は20代のような容貌になってしまい
なんか写真をみないとリアリティを感じられなかった

式は祖父が百歳近くまで長生きしたため、関係者と連絡をとるのが
難しく、ほぼ親族だけのささやかなものになったが
嫁ぎ先の両親や幼なじみもきてくれて小さいながらもぬくもりがあった

納棺と焼き場で二度号泣した。
祖父の骨は丈夫過ぎて骨壺が一杯になり
塵にならずにおさまってしまったので集骨台を指でなぞっても
何もとれなかった。

膝の骨をみたとき、一ヶ月前に手を握りながら
びっちり隣にくっついて話しかけ膝をつき合わせたのを思い出した
あの丸い膝が骨になったのが寂しくてまた泣いた

旅館にいっても、どこに行っても
「祖父です、90歳過ぎてます」といえば
「へーすごいお元気で」なんて言われていた祖父は
骨になっても
「これアゴの骨です、まだ歯が残っています」
といわれて最後まで「へー」と言われていた

亡くなる月、祖父は迷子になったりで三度ばかり
警察や消防のお世話になった。
どうしてもじっとしていられなくて外に出てしまうのだが
これはもう両親でみるには限界だろうと思い
友人のアドバイスで地域包括センターに電話で相談した
親にはためらいがあったが、これから時間をかけて何度も
説得しようとした矢先だった

過去に耳がだいぶ遠くなったので補聴器を買おうとしても
本人が拒んでしまったりしたので
私たちには介護サービスを使う事にためらいがあった
高齢となった祖父の尊厳をどうしたら守れるのか最後までわからなかった

私は最後まで自分を案じてくれた祖父を
一番の幸せに出来なかった気がする
どうしてももっと何か出来たんじゃないかと思ってしまう

でも誰かを幸せに出来ているなんてことに自信なんて持てるのだろうか
アタシの隣で眠りやすらかな顔で指を握ってくる息子にさえ
せめてアタシが全責任を負わねばならぬ今だけでも幸せであってくれ
と、そう願う事しか出来ない。

だからこそ自分で自分を幸せに出来なければならないのだ

祖父は最愛の祖母のいない世界を15年生きた
そしてひ孫に会ってくれた
そのことにありがとう、といいたい。

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