欲しいのはデューク・エリントンの音楽
安静を言い渡されてから2日経ち
やっとネットで切迫早産と安静について調べました
安静の程度がさっぱり検討つかなかったからです。
学んだ事はどうやらもう現段階で自分の症状は切迫早産という
名前で呼んでいいらしいこと、あと安静でも簡単な家事程度とのこと
ことでした。しかしこの「簡単な家事」の度合いがよくわかりません。
でもちょっと猫の水取り替えたりトイレの砂をいじるだけで
ハアハアいうのでこの程度?と思ったりその割りにはお腹が痛くなったり
もして混乱しています。
一方で5月復帰を望んでいたお客様に対応し
その反応の度合いによって相性が良さそうであれば別な先生を
ご紹介したりパワースポットを紹介したりなんてこともはじめました。
切迫症状が出た妊婦の目標は37週までお腹に子供を維持する事
だとか。ここまでくれば正産期という期間になり、赤ん坊は自力で
乳が飲めるそうです。
しかし、悪阻はすでに最初から立てませんでしたが
意識が鮮明な分、動けそうなのに動いてはいけないのは
けっこうこれはこれで心にきます
自分は助産院でいわれた言葉通りジリジリと廃業に向かって
いるんでないかとか、安静の度合いが分かんないまま結局
切迫症状を進めてしまうんでないかとか
そういうことが頭を何周もすることで精神的に疲弊してきます。
アタシが倒れるとマサカドが不安げに鳴き続けるので
大丈夫、大丈夫だよといいながら
おかしいな、安定期に入ったらヨガとか出来るんじゃなかったっけ?
なんてことを呟いてみたり。
仕方ないから意識を食べ物にずらしたり
青果の桃が食べたいとか、ドライフルーツが食べたいとか
妊娠初期からゼリーとかに加工されていない桃が食べたいのですが
季節はまだ先です。なんで今そうなんだよと突っ込んでみたり。
で、たまりかねたので何かあったら口にしようと思い
夫が水天宮にお詣りした時に買ってきてもらった
水天宮の護符を口にしました。
前に生理が酷かったときに口にして和らいだ記憶があったからです。
そして腹帯を巻きました。
和らげ、不安。
その後、夜、なんとなく張ったお腹を抱えて風呂に入ったんですが
ふとお湯にぬれた自分の腕を見ながら思いました
「ああ、自分のこの身体もかつて誰かにこうやって
無事に産まれて欲しいと望まれた身体なんだな」と
なんかそれがすごく不思議で神妙な気分になりました。
誰かってその、母なんですけど。
人は何故、しんどくても子供を産むのでしょう?
やっぱり未来という可能性に賭けたいからでしょうか
理由なんかないんでしょうか?
妊娠が終わればこの不安からも解放されるのは分かっているけれど
いまこのジャストタイムの不安に寄り添ってくれる何かをもちたい
と考えていたら、頭の中で繰り返し「うたかたの日々」の
欲しいのはデューク・エリントンの音楽
という言葉がよぎりました。
それで調べてみました。
心の深い闇に触っては来ないけど、そのウキウキする音は
アタシの指に自然とタップを刻ませて
ああ、こういう関係ないとこから入ってくる光みたいな音楽
悪くないなと思いました。
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