1991年の救世主。
今月の前半にインフルエンザにかかったとき、アタシは関節の痛みに
悶えながら二つのことを思い出し、その中の一つが13歳のときの担任でした。
その人はヒロシ先生といい、中学入ってすぐの担任でした。
技術担当でがっしりとした体型で背が高く落ち着きのある30歳。
工具を持ちやすい格好がいいと作業着を着ていました。
顔立ちは割と端整だったと思います。
ネイティブの英語教師と英語で話し、どうやらバンドをやってるらしいよ、
と兄弟が上級生にいる人が教えてくれました。
産まれたばかりの子供がいて結婚してると知っていたせいか
恋愛の対象にはならなかったけど、人気はあったと思います。
当時のアタシは小学六年生の秋頃に対人関係の悩み等から
自殺騒ぎをおこして学級会にかけられていましたが、担任はじめ
しっかりと向き合ってもらえなかったことから表面上は取り繕ったものの
擦れた感じになっていました。当時、祖父に
「大人ってさ、敬語と礼儀の形だけちゃんとやってりゃちょろいよね」
と話したことを今でも覚えています。そのときの祖父の言葉は
「まあ七割はそんなもんだな」でした。
そんな奴だったので、他校からやってきたクラスメートには何ともいえない
雰囲気に思われたらしく、どういうわけかほぼ全員から敬語を使われて
ちょっと距離をとられていました。
別に不良でもすかした訳でもなかったのですが、新しい友人ができるかと
思った矢先にこうだったので、何でかなと思ってました。
そんな中、ヒロシ先生がHRでこんなことを言い出しました。
「クラスも大分落ち着いたな、そんな訳でこれから俺は個人的に
話したいって奴に声かけていくから準備しとけよ」
(そんなことするのか、この人は)
規律礼して席を立つと、ヒロシ先生はアタシを呼び止めてこう言いました。
「近藤、お前は絶対話すからな」
(まじか!)
本気だろうか、いや、そういって結局時間がねえとか言って
うやむやじゃないのか?そう思っていたら本当にアタシはある放課後に
呼び出しをうけました。
4畳半ほどの技術科準備室は真ん中に大きな机があり
彼とアタシは向かい合って座りました。
「近藤、お前は浮いてるな。」確か第一声はこれでした。
「お前はちょっと他の奴に比べて大人びている。おそらく他の奴は
その雰囲気に戸惑っているんだと思う。今は皆ガキだ、でもな
皆そのうち少しずつ大人になる、したらお前も目立たなくなってくる
今だけの辛抱だぞ。今日は遅くなった、また、話そう。」
部屋を出て、廊下を歩いていく彼の背中を見送って
ほんの少し自分の心が明るくなったのを感じました。
(ほんとうにまた、次があるのだろうか?)
そして本当に次がきました。
単純なガキだったので、結構早く小六の自殺騒ぎのことを喋った気がします。
「そうか・・・」先生はその日、窓辺に立って話をきいてました。
「近藤さ、俺実は一年浪人してんのよ」
「はあ」
「受かった大学中退して入り直した」
「そうなんですか」
「俺が大学に入った年な、中高生の自殺が滅茶滅茶多かったんだよ
それで俺頭にきてな、何でだチクショウ!俺が止めてやるって思ってさ
でも俺の入った大学、教育学部が無かったからだから辞めて入り直した」
「・・・・」
「で、今がある。だからな、近藤、そういうわけだ。」
「・・・」
「また話そう」ニコッ
(はじめて話を聞いてくれる大人にあった・・・)
(なんでだって話を聞いてくれた・・・・)
(信じて大丈夫かもしれない、この人は・・・・)
(嬉しい・・・・)
その帰り道、青々とした桜並木がすごくいいものに見えて
肩の力が楽に抜けた気がして
グレーがかった日々が色を持った気がして
ドキドキしたのを覚えています。
当時のアタシは部活選びの失敗と小学校からのストレスとその
クラス不和とかで自律神経の激しい不調にみまわれていました。
そんなこともあって彼は随分とアタシを気にかけてくれたように感じます。
「何だ近藤、今日も腹痛で遅刻か?」
「はい、すいません」
「しょうがない、また、話そうか」
でも、先生の時間をとるのはどうなんだろう、そう思ってなかなか
話しにいけないことが多かったんですが、彼はアタシの不調を見逃さず
声をかけなかった事はありませんでした。
話せないタチのは知ってると予想して動いてくれる先生に
アタシは信頼と人を信じる救いを感じはじめていました。
でも、不思議なくらい話した時間の割に言われたことを覚えてない。
殆どマシンガントークで彼が喋っていて、自分は聞いてることが
多かった。でも、嬉しかったんですよね、なんとかしようとしてくれる
人が目の前にいて時間を割いてくれていることが。
だから本当に大丈夫かもと思った三学期の冬、母が
「先生来年異動だって」と新聞を出してきたときは本当に
頭が真っ白になりました。
離任式は晴れでした。白い桜が咲いていました。
いつもより綺麗なスーツを着て花束を持った先生が
ちょっと照れと緊張の混じった面持ちで最後に伝えたいことを喋っていました。
「いいか、男は泣くな、泣くんじゃねえぞ。
女の子は、あーと、よくわかんねえな・・・優しくなれ
いつまでも甘えるんじゃねえぞ」
「年賀状は出すな、返事が面倒くせえから!」
というのに出すと丁寧な年賀状がきて
自分はどんな人間か書くという作文課題のときは
「お前らばっか書かせるのは卑怯だからな」
と自分もその中退の経緯をかいた作文を全員に配って
でも恥ずかしいから後日回収して焼却炉で燃やす、そんな人でした。
その作文には、その進路変更の決意を後押しした唄として
佐野元春のSOMEDAYの歌詞が全文載せられていました。
SOME DAY この胸に SOMEDAY 誓うよ
こんな歌詞でした。
馬鹿正直に返さずに、他の子みたいにコピーすれば良かった。
謝恩会会場に向かうため、車に乗り込もうとする先生に声をかけました。
「せんせい・・・」
「近藤か」
「ありがとうございました」
「近藤、お前には最後の挨拶は聞かせたくなかった。お前には・・・・・」
あることを言って先生は車に乗り込みました。
桜並木の桜が校庭に舞い、アタシは唇を噛みました。
(やっぱりか・・・)
(やっぱりなんだよ、こうやって)
(心を開けそうだなって人が現れると奪われる)
(なんだってんだよ・・・なんだって・・・・)
(強くなるしかねえじゃねえか・・・・)グッ
そうやって人生をまた過ごしていく過程で、やっぱやりきれない別れがあって
そうこうしているうちにとある霊能者が
「お前に訪れる助け等無い」と告げてくる訳ですが
熱と関節炎に苦しみながら実のところアタシは
本当のことに気付いてしまったのです。
「アタシはもう一度、先生に会いたかったんだ」と。
正確に言うと、彼が時間と気持ちを裂いて一生懸命に見せてくれた
あの世界で生きてみたかったんだと。
予備校生の時に「君の話をきこう、ご飯食べよう」と言った講師が
全然口だけで話を聞いてくれず、しまいに同僚に「甘えるなよ」と
注意させた時、リストカットしたのも
その件の霊能者の予言が離れないのも
ヒロシ先生が一生懸命に信じさせてくれた世界の手触りが
壊されそうで無くされそうで必死に抵抗してたんだと。
不完全なまま、不器用なまま、うまく人に弱みを出せなくても
近づいて声をかけてちゃんとはぐれないように支えてくれる
そんな人がちゃんといると信頼出来て落ち着けるそんな世界。
先生、類は友を呼ぶって言うじゃないですか。
だからね、同じくらい不器用そうな奴、ほっとかないように
したんですよ、アナタがかつてしてくれたみたいに。
そうしたらもう一回、あなたに会えるんじゃないかと思って。
でもなんか、うまくいかないですね、ハハ・・・
もっと苦悩を見せてくださいとか
主催の気持ちはわからんとか
霊能者の事はわからんとか
言葉が無いとか
遠くから遠くから見てる人ばっかで
乗っかってきたい人ばっかりです・・・・
寂しい・・・・
そうやって泣きつかれた頃に熱が下がってました。
あの時、アタシは先生の前で泣けば良かったのかもしれないです。
「いなくなったら不安だ、誰も信じられなくなる」
と言えば良かったのかもしれないです。
だって先生はこう言ってくれたのだから
「近藤、お前はもう
これ以上強くなるな
もう何も変わらなくて
いいんだ」
でも出来なかった。
困らせて心配をかける気がして出来なかった。
だから無かったことにした。
もたらされない世界だと言い聞かせて強くなろうとした。
アタシは幼かったから、そうやって言い聞かせて
その無理で前に進むしか無かった。
でもたぶん、そこが違った。
結果的にそれは、先生のくれた世界を求めながら
目を背けるコトになっていたんですよね。
持続の云々ではなくて
ただ一度、こっちの運命がどうあれ、全力で
はぐれないように人を信じられるように向かい合ってくれた人がいたんだと
こちらになにも変わらなくていいと言ってくれた人がいたと
その記憶を支えにすればよかった。
「近藤、お前はもう
これ以上強くなるな
もう何も変わらなくて
いいんだ」
先生・・・元気ですか?
やっと、先生のくれたものと生きていけそうです。
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