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2014年6月20日 (金)

猫をすてる。


いつも強がったことは書いてこなかったので、近況をかくと
ここ数日「ああ、しんじゃいたい」などとうわ言のように呟き一点ばかりみていたところ
こういう時に限ってメールで攻撃性の高い愚痴や要求が届くもので
(だからといってそればっかでもないが)
すっかり言葉をうしなって無為に過ごしておったのですが
これではいかんと思いグッとオシャレしてブーツを履き
インサイド・ルーヴィン・デイビス」という映画を観ました。

コーエン兄弟が最後にするやもと言われている作品で去年のカンヌ受賞作。
ボブ・ディランが出てくる直前の時代の空気を表した作品です。

うーん身につまされる作品でした。
売れたい、売れない、でもやっぱ唄うしかないみたいだね
ということをルーウィン氏が確認するという
あくまで日常感覚から遠くはなれないとこで物語が存在する作品なんですが

なんかねえ、終わったあとでじわじわくるんですよね
劇中の音楽の力?それとも主人公の不器用さ?
アタシが思うにその彼の日常というのは、巷の音楽人が
感じている「でもやっぱ、唄うと自分自身に触れるんだよね」
という感覚の手触りがズシンと胸に残るからかもしれない。

という意味ではギター1本で弾き語りをしている音楽仲間に
「観ると良い」とリンクつけて一斉送信したいほどのレベルなのですが
しかし猫飼いとしては一点がどうしても納得しがたいが象徴的だったので
そこだけはネタバレごめんで書いておきましょう。

主人公、道の途中で猫すてます。
しかもアメリカのだだっ広い道の車の中にジャンキーと置き去りで。
その猫が「みゃおう?」といいながらクリクリした目で彼を見上げ
彼はそれを見つめつつ車のドアをしめるんです。
もーそれがかわいい、
前足をちょっと出して車のイスをふみっとする。

過剰な動物愛護とか捨て猫ばっか拾ってる猫飼いさんからすると
あーもうこの映画ダメだわー、受け付けねー
となる1シーンです。

猫の名演技もあって他の人の感想を調べると
本当にそれでもうダメになってる人もいるし
むしろ印象に残りすぎて深読みする奴もいるし
素朴に「あの猫どうなった」と気にしている人もいる。

アタシもコーエン兄弟に「あれはなんなん?」と聞いてみたいが
猫命!の心を抑えて考えると
でもずっとルーウィンが偶然出会うという以外の要素で
猫持ってると、音楽映画じゃなくて
冴えない男と猫の話になってしまうのですよ。

猫はあくまで象徴、物語のトーンを決めるものなんでしょう
(でもだからって最後まで捨てっぱなしでなくていいとは思う)

解釈は色々、でも、アタシからすると結論は一つ
ルーウィンが売れないのは人生の大半が成り行きのせい
でもってそうやって知り合った猫一匹すら責任もって持ち帰って
飼えない、そもそも家もないとはいえ、新しい飼い主も見つけられん。

そんな彼が最後に唄うあとにボブ・ディランの声を聞くと
ものすごい信念と決意を感じてしまうのです。

ルーウィンは「俺の歌は余興じゃねえ」とか「コンビなんか組まん」
とかダダをこね、俺の事をなんで誰も選んでくれないと苛立って
いるように感じる。

でも選ばれるためには自分で何かを選んでないとダメなのよ。

そんな大層な決断力はないけど、でもちょっとだけ成長する
という感じが本当にアタシたちのうちの誰かみたい。

でもこの話が参考にした伝記を書いたDave Van Ronk
カッコいいぜ。

客のいるいないに関わらず、唄い続けたい音楽人はみるとよい。


さてそんなアタクシ、久々にオシャレしたんで自撮り敢行。
うーん、でももうオーラが落ち着いてしまっているな。
もう若く見える30代はやめて、
篠ひろ子とかの落ち着いて魅力的な女性を目指そう。

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