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2013年2月22日 (金)

今日の死刑について考えてしまった。

世間に興味をもつのは命とりかも
今日は楽器の音チェックで夜の水族館。
無人の水族館にいくのは今年に入って何回目なのだろうか。

ちょっと気が緩むとアタシはよく時事ニュースに見入ってしまい
今自分がやらねばならぬ大切な事を全部できなくなって
休息もとらないほどツイートを読みまくってしまうのですが

今日もそうなってしまいました。

死刑執行された三人の記事、
特に創の記事(手記?)を読んだんですけど
小林薫死刑囚にしても、金川真大死刑囚にしても
真っ正面からのコミュニケーションに飢えていた印象を持ちました。

死刑は真相を伝えてもらえぬ茶番、と彼らは思っていたようですが
結局そうやって失望をあらわにする時点で
せめて極刑という極限状態の中で自分の本当を分かってほしかった
という内面の叫びを感じます。

興味深かったのは金川死刑囚について
人を殺すのは自分にとってライオンがシマウマを殺すのと同じ
というようなことをいったそうなのですが
それでも篠田編集長など身の回りの人間には礼節を感じさせるところ
があったようで彼はそれを「好青年」と表現していたけれど
彼にとっての人とは多分その前に
「自分を知ろうとして向き合ってくれた人間以外の」
という枕言葉がつくのではと感じました。
自分に優しい人は味方、それ以外はゲームの敵くらい希薄
だから罪の意識も感じないと。
おそらく本当に彼は自分から人の中に入ってコミュニケーションする
方法が分からなかったのではないでしょうか。
ゆえに自分の中で繰り返し響かせた言葉の中で酔ってしまい
人間的な本音が埋没したのではないかと。

でもだ、
仕事柄アタシの意見は正しい、正しくないで判断されそうだけど
今回はこの人はこう考えているんだ程度で読んでほしいのですが
アタシは日本において死刑は必要だと思うよ。

本人に反省を促す事と
社会的に一線を越えた人間を処罰し治安を維持する事は
別個なんだと思う。
アタシは今日の谷垣法務大臣の会見の言葉に正直
腑に落ちてしまったところがある。

鑑定顧客として性犯罪の被害者と接して感じた事は
たとえ生きているとしてもそういう目にあってしまった人は
人生の半分以上を失ってしまったに等しいのだ
以上を踏まえると仮に小林死刑囚の被害者が生きていたとしても
もうわいせつ目的で風呂場に連れて行った時点でアタシは
感情的に「奴を殺してくれ」というスイッチが入る。
その時点で彼女の青春期などの苦しみはほぼ約束された
ようなものだからだ。

理由はどうあれ自分の人生を狂わせた人間がいなくならないと
安心できない心理は絶対にある。
被害者側がそれにたいして許しの境地に達するまで苦労させるより

アタシはどんな心の闇を抱えていようが、人を殺すという
一線をこえたら終わりだ、という態度とルールを国家は持つべきだと思う。
だってひどい心の闇を乗り越えて幸せになった人は沢山いるんだぜ。

ただえん罪は別。えん罪を訴えている人については充分な審議が
なされてほしい
と、同時に死刑囚は死刑確定の時点で生い立ちから何から
詳細なプロファイルをとり、それを犯罪抑止のためのデータとして
活かすことにして
それを終えてから執行するという仕組みと流れは出来ないものだろうか。
そこまでやったらひょっとしたら
「(死刑で)殺す意味なくない?」
と人は本当におもうかもしれないよね。

まあ、社会の流れに反抗する持論ですが
こんなことを考えて仕事が手につかなかった今日です、
飯野さんも亡くなったのを知ったし、ほんとにもう・・・

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