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2012年12月 3日 (月)

授業とはまさに業を授ける所行なり。

授業とはまさに授けらるる業なり

今日は講評会でした。
今までは手元にあった順で作品を講評してきたのですが
そのスタイルをやめ、前日までに作品の講評順をきめ
リストアップをしてそれをコピーして学生に渡しました。
その名前の横に満点と参作候補者だけは印をつけます。
これをみることにより学生は事前になぜ印がついてる人の
作品が良いのか意識を高めることが出来、同時に
本当は奨励されたもんじゃないですが、
誰のとこで抜ければいいか考えやすいようにしました。

そして講評自体はされる人の作品を黒板に全部貼ってもらい
一人頭あたま5分しか時間がとれないため、これも事前に
伝えることをメモしておきまして、域の電車の中でも
見直してイメトレしてきました。

本当は学生自体の思いもその場で聞きながらやるのがよいのですが
それをしないかわりに学生には、この講評をみてアタシが
この作品の課題で何を伝えようとしていたのかをよみとり
最後に紙を回すからそれにかけ。
一番的を得た人にはスタバおごる。グランデもトッピングも
何でもしていいぜ
という話をしました。

この提案は思った以上に効き、皆いそいそと作品の貼りかえ作業を
手伝ってくれましたが、アタシが最後に緊張の糸がほぐれすぎて
自分の話を脈絡無くしてしまい、アンケート書く時間が授業から
はみ出してしまいました。
というか最悪だったのは、君らの半分以上は落第点なので
追加課題を出すことになるが、いい加減な作品をだされても
クリアさせられない、なぜなら作品の評価を甘くすることは
作品を観る目に嘘をつくことで、アタシはそれができないそれは・・・

という時に、アタシはその理由として、自分は学生時代失恋を
きっかけにジャンキーになり、そんな自分の復活の手段が
作品と向き合うことだったから
という話をしてしまったのです、ね、最悪でしょ?
病んでた自分にアイデンティティがあるなんて話すのは
1990年代のグランジ世代の曲がった自己評価であって
帰りの電車でその自分が許せなくてアタシは緊張性頭痛を起こしてました。
でも、一方でこう思うようになっただけ、歳をとったのだと
感慨深くもあり、でもやっぱ今日はむかついて眠れない感じですな。
喜びと楽しさでアートを作ることを教えられない自分は
やっぱ周りが言うように講師を降りるべきかもしれない。

本当の理由なんて多分一つじゃない。
でも、優等生でここまできた自分が急に病んで、ベンツ一台分の
学費を学校に行きもしないで垂れ流したことにオトシマエをつけたかった
のは事実。だからアメリカで作品が売れたのは本当に嬉しかった。

でもそれゆえに霊能者という仕事で生計をたて、その中から
アーティストに心ばかりの謝礼を渡してイベントをやってる今が
ありがたかったりする。
自分の作品を呼ばれて展示するのにギャラが発生することは
絶対にアーティストの意識をポジティブにかえると思うのです。

しかし、昨日の続きですが、それを押し進めていった結果
自分はアーティストではなくやってることが一時的とはいえ
経営者になっている自分に疑念を抱くのです。
経営と表現活動を一気に出来る器用さがない自分に。

昔は自分で歌ってたりもしてたんだけど
今はイベンターやってる、とか
学生に対しても、ここには作家として入ったんだけど
今は作家やめて講師と占い師してるって言えたらどんなに楽か。

35歳までに作家に戻る計画があるんだけど今は下準備として
経営の勉強してる、って言い続けることの負荷はデカイ。
でも、前者はどうしても嘘なのです、アタシの心にしてみれば。
いや、認めたくないからなのかな。

しかし一つ言えるのは、この前記事書いて、覚悟を決めましたが
アートやって幸せになるなんて嘘ですよ。
より深い孤独に堕ちることです、アートなんて。
そして自分は今着々と壇ノ浦よりも深い孤独に沈む準備をしている。
だから今日も学生に、あなたはデザイナーよりアート向きの
人間だと思うという度に、獅子の子を谷に落とすようにため息が
出ました、心の中でね。

こういうことを考えるとタイトルのように授業とは
特に講評は業(カルマ)を授けることともいえると思います。
今日はとりあえず、聖おにいさんの八巻が面白かったのが救いです。

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