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2011年11月29日 (火)

激論と講評の在り方。

激論と在り方。
久々に学生時代からの付き合いで、
大学の講師をしてる友人と
夫紹介がてら会いました。

しかし近況報告は激論に発展。
場は何度か緊張が訪れました。

中でも講評のありかたは正反対。
「作品の講評は学生に司会を立てさせ、
彼らに議論させ自分は見守る。
それが彼らが将来アートをやめても続けても
アートを評価する目を育て、
ひいては子に語るなどして発展に繋がる」
とする彼と
「講評は学生に話をふる事もあるが、
基本的にアタシが喋り通す。
学生にはその語りで見方や視点を示唆し、
卒業後も思い出して何らかの制作が出来るような
言葉を一つでも残す事で彼等の未来を応援したい。」
というアタシ。

「学生達が卒業したあと、誰もアートの見方など
教えてくれないんだよ?それは無責任ではないのか?」
と彼から言われるも

大学で思い出す記憶は友人の批評よか
恩師の言葉だった自分としては、
「君が正しい」とは言い切れない。
そして、個性的な講師の斬新な批評の切り口が
後々自分の作品の批評に影響を与えられた身としても
ウンと言えない。

まあ、自分の観る目が緩くなったら
成り立たぬ方法なんですが。

彼もただほうっている訳じゃなく、
深い見方を促す発言をするとの事、

結局見守る父性と
ほおって置けない母性の違いか?
なんてまとまりになったんですが、

なんかやっぱり友人式にやるのは
生徒に大事な何かをあげ忘れる気がする
のです。

気がする、では議論を続行出来ない訳ですが。


夫はそれを黙って聞いて、時々参加してました。

教育、この正解なき世界は
アタシをまだまだ悩ませそうです。


しかし、脳のブドウ糖を物凄く消費した気分だぜ。

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