三半規管の彼方から、愛のお化けがやってくる。
小さい頃、アタシはよく鼻血をだす子供だった。駅でも鼻血を出してしまい、駅員室で寝かされたことがあった。はげて茶色く踏み固められた畳に横たわり、鼻に詰められたティッシュよりも、鼻から流れることができずに喉に逆流する血の味を味わった。水よりも濃厚でやけるような味の液体がとろとろと伝っていくのを時々喉をならしてやり過ごさなければならない。夏の駅員室に音の記憶はない。感覚を減らさなければやりきれない気持の悪さだった。
「どうして最近あの歌をやらないの?」とまっすぐな目で質問をされ、アタシは少したじろいた。ここは吉祥寺のライブスペース、その人はアタシの歌を愛してくれる人だ。少し考えて間をとってから「ピッチが合わないんだ」と答えた。ピッチが合わないからやらない。でも彼女はそれをとても聴きたそう。だから「次でやるよ。」と答えた。
トム・ヨークならそう言われてもクリープやらねえんだよな、と換気扇の下でギターを抱えてタバコの煙を見つめた。ちょっとやらないだけで転調がひけない。「たまには自分に優しくしたい」そう思って答えが出るまで弾くのをやめるつもりだった。でも何も見えない。気持ちばかりが転調した。だったら誰かの希望にのってみるしかないんかなと思った。
最後のAPIAに入る。「今でも一呼吸おかないとやれない曲がある。」って誰かの言葉を思い出した。ゆっくり弾くためには直前で乾杯しないとな、と思いステージに立った。ゆっくりと前フリ。思いのほかいいペースの前奏、だがしかし、やっぱりアイツはやってきた。ギターと声で震わされた海馬が三半規管にお化けをつくる。会いたくても聞けないちょっと音程がズレた愉しそうな鼻歌がアタシの声とかぶって響く。
あの曲が弾けなかったのは、愛のお化けがでるからだ。
出会ってすぐ入り浸りになるような恋愛しかしたことがなかったアタシは、感覚をあけて会う恋愛をしたことがなく寂しさを持て余して歌を作った。そしてその歌をことのほか気に入って歌っていた男をアタシは愛していた。その人はメールにまで歌詞を出すほど気に入っていて、いつも歌っていた。「ほんとうに好きなんだねえ。」「うん。」やり取りを思い出したら一瞬コードを間違えてしまった。
次がどうと思うことも苦しく、戻る方法も判らず、寝かしても埒があかないから歌って直面することにした。三半規管に再生される声を聴かないふりしてはさらに間違えてしまう、目を見開くしかなくて、したら身体の内側でぷちっと音がして頭から足元までザアアアアアッと液体が流れる感じがした。行くことも戻ることも出来ない血瘤が耐えきれずに破裂したみたいだった。生温かくてぬめる感じ。「ああそういえばアイツ、演奏(や)ることで泣く曲があるんだよって言ってたな、こーいうことか。」と思った。濃度の濃い三分間だった。ライブ終了後、彼女が和菓子を握らせてくれた。「努力賞」、と心の声がした。
アピア最後と思ったら名物のアジアンそばスタが食べたくなった。一皿をゆっくりとかけて味わった。ライブを見に来てくれた子と食べながら「三半規管が震えるとさ、愛のお化けが出るんだよ。」といってみた。不思議そうなリアクションをみて汁まで飲んだ。血の味はしなかった。
のどに急激なイガイガ感と手の甲に発生したじんわりした痒みをゆっくり撫でながら、「アタシやっぱソバアレルギーなんだなあ。」としみじみ感じた。甘え下手で、倒れるほどに身体に出ない程度に丈夫じゃあ、歌うしかないわけだよなと思った。迷った時はつらいほうに飛べというわけだ、そこからマシになりたくて必死の様子であがいて走るもんな。血瘤破裂した血で身体を洗いながら歌で立ち止まるのもいい、そう思った。