必要とされていると実感できないものを必死こいてやることに何の意味があるのか?
池袋某所のイングリッシュパブで隣に居合わせたヨギ(ヨガの修行をしている人)曰く、人間の感情のもつ矛盾こそ魂のもつゆらぎそのものであって、それこそが振動なのだという話。アタシはきめ細かく粉砕されたギネスの泡を唇で舐め、煙草を忘れたせいで手持無沙汰な指先をせわしなく動かしながら、ああそれは真ですね、とニュートンで読んだ量子論の模型の揺らぎを思ったのでした。
5月とはわけが違うのです。誰にも必要とされてないものを必死こいてやってることの虚しさの疲労を極限まで抱えながら6本のライブをこなさねばならないという過程は、行き詰った恋人と缶詰状態になるのに似ていてアタシの予想では95%の確率で音楽が嫌になるであろう、という憶測をたてております。というか、折れそうな心をコメント欄で救ってもらおうと一瞬でも考えた時点でもうキャパはとっくに超えていると思うし、声援が必要なものなら最初からやるべきではない。というか「そんなことないよ、必要だよ!」という声を素直に受け入れらんないほど余裕がないから言うのを控えていただけです。人は言うわけです「やりすぎだから休め」って。でも病欠でもない限りキャンセルなんて無理でしょう。休みたいとやめた後の自分と、そういうの全部飛ばしてしまうミラクルを疑う心理を抱えながら、それでも驚異的にYouTubeに画像をUPしたり、宣伝を考えたりする自分とアタシたぶん今ばらばらの心理を4つぐらい抱え込んでいるはずです。
ノエルだったらどーすっかなあ?きっとキャンセルの嵐だろうなあ、そんなことを思いながら、でもアタシはガチガチの責任感で生きる人間だから逃げたくないしな、これで本当に嫌になるならそこまでの音楽であって、たぶん次があるんだろうと思ってみたり。結果アタシが導き出した結論は「音楽なんかもうやりたくねえよ!という思いを全力でギターにぶつける」という大層矛盾をはらんだものになりました。音楽はたぶん、アタシにとってやるものではなくて、感情なのかもしれない。感情が表現できる今いちばん最高のおもちゃがギターなんだと思う、というそんだけ。
何かをやり始めてそれを続ける過程で必要とされているか否かを気にするのは、幼少期に自分はこの家に必要なのか?という問いをして育ったか、もしくは僕は愛されて育っていると理屈抜きで信じて大きくなったかが大きく左右する気がします。アタシは前者ですんでこの感情とは一生付き合わなきゃならない。でも、媚びたくはない。ライブに来てくれと個人的に頼めば来てくれた人はたくさんいるかもしれない、だけど、アタシはライブの後の呑みばかり楽しみにするようなコミュニティを作る位ならステージに立つ意味がないと思ってる。そこんとこは今でも。アタシの音を聴いて、また見たいと思って調べにくる類の人間を作り出せないソングライ ティングとステージをする位なら極限状態まで自分を追い込んで空中分解をするほうが美しい。てか、そういう中でしか自分に価値を感じられないからしょうが ない。生ききることに薄笑いして生を全うするにはこの生き方しかないのよね。まだこうして誰かに話すとか思いをまとめられるということはまだどっか余裕が あるんだと思うしね。結論に至って何かをつかむまでアタシはまだ本当の混乱に突入していないし、溺れ切れてない。
でも一つ言えるのは、ステージは宿命だったと思ってる。今でも。運命の恋人は言われた時期に巡り合うから運命なんじゃなくて、運命を変えてでも一緒にいたいと思う相手だからそうなんだよ。それと同じで、アタシはギターを持つことがここまでの人生全部否定することになってもしたかったことだったからさ、ここだけは本当。