だいじょうぶをおしえてくれ。
PinesさんのCDきいた朝は過ぎ、夜になった今僕はたった一人で[Peter,PaulandMary]を聴きながら版木に刃物を当てている。なんでガラにもなくこんな静かな曲をきいているかといえばハルさんに簡単なコード進行を覚えるならこれだと貸されたからだ。しかしだ、将来的にはガレージバンドでバッドレリジョンみたいなことをやるという自分に本当にあっているのだろうか?でも今夜はこの静かなうねりが気持ちがいい。たった三人の声とシンプルなギターで進行する夜は今宵の緊張と対等に引き合う。何故なら明日、机の前に人を迎えてタイマーをおした瞬間にプロ占い師「美虎先生」のお時間が始まるからだ。
依頼者と会話して静かにこめかみと耳の中間辺りに神経の八割を集中した後、残りを自分の皮膚感覚に任せて空間に意識を沈めるとき、僕はいつだってその人だけが持つ海の中にただ深く潜っていく気がする。何処までが僕の感覚で何処までが依頼者によってもたらされるものなのかその差を慎重に捉えながらこの場で発するべき言葉を読み取って声に出していく。その瞬間、相手の人生が自分に乗っている確かなプレッシャーをわが身に感じ取る。言葉の一つ一つに真価が問われる。一歩間違えば一生の傷を残す、もしくは相手を殺す。でも反対にヒットすれば相手の言語化できなかった不安の牙城を打ち砕き、彼や彼女を暴走から救い出すことが出来る。言葉のチカラの美しさと恐ろしさを意識せずにはいられない瞬間だ。そして能力が真偽であるかを見極めようとしながら、感情的な不安に揺れる依頼者のしぐさをみながら何処までを伝えていいものかと常に心の中でカードを切り段取りをたて続ける。こんな時いつも思い出すのは、ドラゴンボールのファミコンソフト。確か天下一武道会だったかな?敵に合わせてカードを切ってはどんどん足していくあれだ。
時に相手の前世で経験したことの衝撃が強すぎる場合、心の動揺をもろに経験してたまに吐き気に襲われる時もある。風邪や二日酔いなら理解されるのに、それがどんなに苦しくても疑いの目を向けられる僕の生き方。それはブルーハーツを好きになってラジカセごと抱きしめて眠った情熱が理解されないことにも似てる。それでも僕が鑑定という人との特殊な出会い方を止めないのは人間の魂へのあくなき探究心の発動であり、同時に人間を愛しているからだと思う。人それぞれの人生経験とそれを勝ち得ていく勇気を手にしたときの顔はやはり美しくて、それを引き出せた瞬間に他の全てはいつもどうでも良くなるのだ。それゆえに、不安から結果ばかりを知りたがるお客にどうしたら人生は過程で得る経験が全てであってそれを自分で歩いて言葉にする事が大事だという価値観を伝えることが出来るのか?という悩みにここ数週間悩み続けて結局答えを出せないままでいる。
五月ごろ、不意にテツが私の未来を口走ったことがあった。「7月には誰でも気軽に会えたりとかいつでもライブにいける人じゃなくなるよ。」確かにそれは起こる事だけはわかった。私は怯えて友人に話したらその人は「わからない未来のことなら考えないほうがいいよ」といった。でも、分からないのは事象であって、起こる事は確実ということを伝えられないもどかしさに口をつぐみ、僕は自分が本当に欲しかった言葉を知った。「大丈夫」とただ言われたがっていた。「何が起こっても大丈夫よ、私がついてるんだから。」といわれたがっていた。人間関係とか友情とか仲間とか横の連帯感がどんだけ心強いかが良く分かった経験だった。そして予感は当たった。僕は都合よくチカラに頼る人を遠ざけ、自腹を切って人をライブに呼ぶのを止めて純粋に客になる人を求め始めた。そして明日は必ずこれは伝えようと決めている。「だいじょうぶ」を伝えたい。「あたしがついてる」と教えよう。未来が見えても見えなくても人はこれで八割は救われると思うから。
写真は僕のヒーローになって欲しい藤岡さん。