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2007年6月24日 (日)

俺の背中に...

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「羽根」

僕の背中に羽根が生えて
君の寝顔を見つめるなら
このまま僕は身体棄てて
ずっと傍に居ても好いよ

AH-----------------

君の背中に羽根が生えて
気儘に空を飛びたいなら
今すぐ僕は両手広げ
イカロスみたく朽ちても良いよ

AH-----------------

君は僕の羽根
君は僕の夢
君の行く手阻むのなら
僕は砕けるさ

AH-----------------

君の孤独に終りが無くて
感触だけを求めるなら
僕の体をバラして抱いて
犠牲の価値を試して云いよ

AH-----------------

「自分が生きている中でもっとも辛いことは
        人が本当に自分を必要としているときに自分がそばにいないことだ。」

ということを思春期には本気で考えているような大変に偽善な子供であった僕は、それから10年くらい経って人の転機ばかりに関わるような霊媒を職業とする人間になった。10代の真剣な願いが今いくつも実際の出来事として現実化していることを思うと、時々自分はその頃に純粋にとばした願いのレールの上をまっすぐ歩いてしまっただけな様な気がして10代怖え、思春期マジ怖えなどと一人言してしまう。

与えるという価値観は自分が愛されるために必要なアクションだったと真面目に考えていたことは今ならわかる訳なんだけど、その癖は今も抜けていないようだ。ただその頃よりも賢くなったと思うのは自分の善意に人が気づかなくても一向に構わないという自己満足で事を成し、Give&Takeの感覚が自分と近く一致する人と深く関わるようになったということくらいだろうか。助言はよくされる。「あなたが思うほど、人はあなたを思ってはいないのだ、だからそんなに人間に入れ込んではいけない。」と。ありがたいけどじゃかあしい。気の済むまで人を思うのは僕の趣味だ。僕は人を思うことで自分を見つめている、もしくは人を思うことと自分を生きることのバランスを取る研究にとりつかれている。僕はこの前、僕は自分を生きながら人を思い続けるのだと心に決めた。何故かこのことを王子(前回の日記で紹介した湯浅君の愛称)のオープニングと阿佐ヶ谷でのトランペットジャズライブを掛け持ちした夜の結果として思った。走ってやっとたどり着いた名曲喫茶のドアをあけたら堀尾さんがトランペットを吹く姿が目に飛び込んできて、その次に常連さんたちがそれぞれに椅子に腰掛けて聞いている姿を確認した時にしみじみと思ったのだ。理由なんて特に無いが、多分LAとか色々な経験が蓄積されてそう思ったんだと思う。もしくは途中下車駅を間違えて高円寺を走り回ったせいで脳がシェイクされてそんなことを思ったのかもしれない。

この歌詞は元々ベタなラヴソングとして作り始めた。僕は恋愛ばかり歌う歌唄いになることに積極的ではないんだけど、つい最近自分の中に沸き起こった「ラブソングを馬鹿にしてはいけないのではないか?」という仮説がこの歌詞を書き進める後押しをした。政治的イデオロギーをネタにしても、そこに感覚的なリアリティがなければ説得力をもたないカッコつけに終わると最近の僕は思うわけで、でも考えたら現代は目の前の「君」に伝えるという基本が気持ち良いくらい抜け落ちている気がするから、だからこそ、濃密な時間を過ごし精神的な距離の近い人である「君」に対しての唄をリアリティをこめて唄いたいと思ったのだ。でも自分の予想に反して唄えば唄うほど、この唄の「君」の領域はどんどんと広がっていってしまった。寝顔をみつめたい「君」は誰かにとっては愛おしい娘であり、傍に居たいけど居ることができない友人へと対象が変わっていった。こういう曲を「作らされた」とか「唄わされた」とかいうのだろう。そして僕は自分に対して「ちっ」とか思いながらこの歌を歌い続けるのだろう。ベタなラブソングばかり生成し続けるにはちょっとばかり僕はキャラが曲がっているのだ。そして次のトリのライブでもこれを唄うんだろうな、そんな気がする。

KURAWOODの次回のライブは今週水曜日です、おそらく21時近くに入場しても間に合うと思います。代金は1500円。僕のリアルに君が触れてくれたらきっととても嬉しいと思うから。







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