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2007年1月14日 (日)

お笑い、センス、そしてOZMA。

二月最初の展示に誘ってくれたリタ・ジェイさんのお笑いライブに
行ってきました。

実弾生活というドラマ仕立てのショートコント集?以来
お笑いというものを経験するのが二回目だったのですが
おもしろいですね。

スピードとリズムとテンポの万華鏡というか
間合いと展開はルービックキューブのようだなあとオモイマシタ。
一つの言葉、一つの態度、一つの行動、
一瞬に同時に引き起こされるいくつかの事象から一個の要素を
選び出して、自分の中にある過去のデータの何かと共通点を
見つけてジョイントして現実世界に言葉やアクションでひきづり出す
それの繰り返し。

ネタの前フリの状況説明は長すぎても省略しすぎてもいけない
けど同時進行でお客さんも意識する。
観られてるけど、頼らない、つまり
決してみのもんたみたいにお客さんの一人に話しかけて巻き込まず
観られているのを意識しながらも自分たちだけのトークで展開し続ける
という状況の切迫感。

お笑いも結局センスなんだと思いました。
オーバーアクションすればいいわけではなく
間をとればいい訳ではない。
客層の認知とか感覚を読み続けるという瞬間的な緻密さは
何度も触れなければ、サブリミナル的な感覚で忘れ去ってしまうところであります。

ちっとこの辺であのネタについて書いてみるか。
DJ OZMAさんです。
その日、私は格闘家の背負う業に酔いたくてK-1しか観ておらず
問題の年越し大目玉映像は翌日に
律儀な記録家である母のヴィデオストックから拝見しました。

目からうろこが落ちました。

と、いうのも
リリーフランキー氏の「日本の皆さんサヨウナラ」という映画エッセーを
読んだときに彼が、映画内での女優の乳首の露出加減についてあんまりに
言及するので、公共におけるエロの基準は乳首なのかなという
仮説をたてて検証の機会を待っていたんですよ。

最初の映像自体は、やるな、さすが翔やん、
と思ってました。

実際の女性の裸は電波に流せない、
という公共ルールを、では裸っぽいなんかに切り替えるという
視点のずらし具合に彼のセンスを見た気がしたんですよ。

でも抗議が起きたということは
やはり問題は「生の裸体ではなくて乳首だった」、
という仮説の立証になったと思い私はすっきりしてたんです。

でも、どんどんエスカレートするにつけ疑問が出てきました。
なんで厳重注意なの?
電話って、たった1000件だよ?一億以上いる人間のうちの1000人だけだよ?
なーんて私はおもっちゃってました。

その前の年の紅白での氣志團が他の歌手のバック演出などに参加して
積極的な盛り上げに徹していた姿を見てた分、ちょっと不憫にもなったくらいです。
彼の功績はそこまで今回の1パフォーマンスで帳消しになるものなのか?と。

もう夕方六時にテレビ東京で
まいっちんぐマチコ先生の再放送を観られない時代になってるみたいですね。
あのベルサイユの薔薇の再放送でさえ、
後半オスカルとアンドレの裸のセックスシーンを何度も流していた時代
私たちは猛烈な勢いでテレビを消す親から
セックスが今はタブーらしい、と認識しながらも、
でも一方で休み時間にクラスの男子が盛り上がる
エッチシーン話に参加して給食たべるというおおらかな
小学生時代をすごした私は疑問です。

何が変わったんですかね?

岡村さんも高野連となにやらあったようですが
ついに逆遺憾を示した彼の報道を見て
時代はなんつーか俺たちのものを俺たちの基準で作る
というレジスタンスの時に差し掛かってる気がしてます。

だからこそ、
小劇場で展開されるトークライブの間に
ちょこっと垣間見える彼らの熱さが
たまらなく私は欲しいと思うのかもしれません。
.........楽しくなってきました。

と、いうわけで、第三回を楽しみに待っています。

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