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2006年12月20日 (水)

ショーン・レノン、君はなんて素晴らしいんだ。

今日はリタ・ジェイさんと打ち合わせをしました。
彼がガチンコ勝負の二人展の相手に指名してくださったからであって、
年明けにお目見えする展示がBEAMSよりちょっと早まりそうです。

Sean ここ数日、私はSean Lennonのアルバムの 
Friendly Fireを聴きまくってます。

この人はいわずと知れたジョンとヨーコの息子です。
ゆえに企画モノっぽくて敬遠してた自分を恥じてます。
というか親が世界的に歴史的にも
有名すぎて偉大すぎて息子まではもういいよ、
おなか一杯だよって感じでいたんですよ。

父ちゃんの伝説を愛して維持していくのと母ちゃんの芸術家としての新作を追うので手一杯だったんですね、

でも間違ってました。なんつーかね、ごめんなさい、ホントごめんなさい
といいたくなる傑作です。

このね、一緒についてるDVDがまた素晴らしい。
アメリカンニューシネマみたいなちょっと洗練直前の泥臭さっていうか、
あのお昼のテレビ東京の再放送みたいな独特な色具合の画面で
展開するショートフィルムで、観てて飽きないです。内容もいいんですが

二曲目あたりで波が来るんですよ、
丸めがねのせいだと思うんですけど、ふとジョンの面影とヨーコの面影を追う向こうに
一瞬カトちゃんが走るんです。

「あ、ダメよ、Vivienne,それはいかん」と打ち消そうと必死になってるうちに
映像の三曲目でSeanがスネオヘアーでのび太くんみたいなカッコででてくるので
もう笑いの神との拷問的な戦いが起こって、さらに海におちたショーンが人魚と
キッスしたらそれが鯖になって大慌てみたいなコメディーになるのでさらに拷問。
きっと笑ってほしいだろうけど、それって心外だろうよという良心の呵責。

あのサルとパグの買い物コンビでパンとジェームスってのがいるんだけど
その二人のスットコ具合で笑いたいのに、飼育係の宮沢さんのわざとらしすぎる
演技にばかり目が行っちゃう悔しさというか申し訳なさとの戦いに似てる。
本編を鑑賞したいのに望まない脱線しそうっていうか。

でもそれを差し引いても、劇場でみてもいいくらい
というか家でカウチポテトな鑑賞会を開きたいくらいにいい。

このアルバムは
「付き合ってた彼女が友人と二股かけてて、
別れたのは悲しかったけど美しい経験だったよ。」というあたりがコンセプトに
みたいなんだけど、
怒り狂っても不思議じゃない経験を「美しかった」といってしまうところに
親から受け継いだ感覚を思います。
直情を一歩はなしてアレンジして昇華する、アーティスト的に再構築する目線をもちながら
あくまでそれをギターとかの感情吐露を誘うような音色でやってのけるバランスの絶妙さよ

そして私は結局のところ何にこんなに文章を書かされてるかというと
カト.....じゃなくて
SEAN LENNONという人の遺伝子とか宿命との殉じ具合の潔さなのです。

SEAN LENNONという人はもう存在自体がメランコリックなんですよ。
全体からみたら思いきし親父の面影で、ストロベリーフィールズでのジョンをおもわせる
甘い感じの声をもちながら、その顔立ちは激しくヨーコに似てて
もう彼を見るたびにイマジンとかWAR IS OVERでの二人の映像とかを
思い出さずにいられない。

で、ショーンはその感じをしっかりなぞるような音で歌い上げちゃうわけで。
決してノイズロックとかに走って世間様のイメージに抵抗するんじゃなくて
あくまでその存在のメランコリックさをしっかり土台にしながら
きちんとジョンでもヨーコでもない彼の世界を構築していくんです。
二人から受け継いだ遺伝子の要素を感じさせながらも
ショーンレノンという一人の人間としてしっかりブレンドして世界を押し広げている
潔さを、宿命に殉じているなあと思っちゃうの。

アタシはここ数日覚悟を決めたのね
NIRVANAのDVDでもカートが言ってたけどやっぱ
「お金と音楽を一緒に考えるとおかしくなる」のよ。
私は版画だけど。

作ることしかまともに出来ない、
だから「それで成功してお金を得よう」という思考回路でいたことは実は不十分で

私がすべきは
「私が作品を作ることで私は近藤家、ひいては祖父が必死に作り上げた一財を
 潰すかもしれない。けどそうなってでも最低、スゲエもんつくって世の中に
 近藤家ここにありという痕跡だけは一つでも多く残そう」っていう
覚悟だったんです。

だから最近思うことは、どんな作品で立ち回りをしたら、
将来ホームレスになって道端で毛布に包まる状態になっても満足の笑みを
浮かべられるんだろってそればっか。

かりにホロスコープや予知能力が大丈夫だよっていっても
そこに絶対の保障はないのですよ。だって私たちは植物ではないのだから
足があって移動できるぶん、日陰の位置から日向に移れるだけじゃなく
日向から日陰におちることだってあるのよ。

書いてることは悲壮かもしれないけど、でも私は何故か今すごく落ち着いてる。
静かな闘志がわいてる感じ。

今思うのは、これだけの覚悟ができるなら、
どうしてもっとこの域に達しなかったんだろ?
私はたぶんもっと早くこの覚悟ができたし、それができたらもっといい作品を
作り上げることが出来たはず、という強い後悔です。パティじゃないけど。

一財潰しててでも芸事に生きるのよ。
誰に何を言われようと。

だから人の展示とかライブに滅多に行かなくなりました。
純粋にこの人の何かが観たいとか会いたいとか思わない限りは。
つきあいという感情を排除するためです。
「つきあい」という感覚ばかりで何かに触れすぎたら
本当に人をひきつけるものの繊細なニュアンスを忘れてしまうから。
だから広報活動にも力がはいらなかったり。
やりすぎると、自分の表現を見に来る人がやっぱり、作品に惹かれたではなく
宣伝につられたにすぎないと思ってしまいそうだから。

ホンモノでいたいと思うのです。
ホンモノを作りたいとおもうのです。

そしてそのホンモノを自分のプロダクトに落とし込むための重要な要素に
「人に何を言われようが宿命に殉じる美しさはかかせない」と思う私は今
SEANの歌声はなくてはならないものなのです。

よかったらきいてみそ
my space  SEAN LENNON
http://www.myspace.com/seanlennon

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