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2006年11月12日 (日)

武と舞とは似て非なるものか?

今日はTOKYOZAの舞台公演にいってきました。
まっすぐに伸びる手足とくるくるまわる体躯が空間を切る美しさに
見惚れつつ、同時進行で私は泣いていました。

なぜにゃらば、

隣に座ってた連れの子の語ってくる前世のお話が同時進行で見えてしまい、
まさしくバイリンガル状態だったからです(しかも壮絶で切ない)。
だもんで、アンケートの項目で二つ分しか感想が書けなかったのはそのせいです、
すんません。

その後はお茶して別れた後で道場にいきました。

総師範はおしゃれ好きです。
ちなみに頭はベッカムヘアーです。
そんな総師範がこのまえ講習会で言った言葉

「武をもってでしか武を超えられない、その究極は敵への愛である」

雨で湿った豊島区の空気の中、その意味を考えていました。
やっとまともに鏡を直視できるようになった昨今、
武道には必然と因果応報の究極のバランスが凝縮されている気がしてなりません。

人間の因果において
お互いに同時に利をなせばそれは必然であり、
片方が一方的に利をむさぼった後で、その落とし前を逆の立場で受けるのが
因果応報だとここ一年の鑑定の実感として私は分析しています。

株式の世界においても、お金持ちは頻繁にランチやディナーミーティングで
情報を交換し合うそうですが、情報量に乏しい奴は等価交換できない奴として
はじかれるそうです。つまり、必然を発生させるまでもないという奴ですな。

そのかわり、一時そうやって情報量の乏しい人間をはじいた人が
今度はなんらかの都合で情報入手困難となって別な人にはじかれれば
それは因果応報なわけです。

で、武術においては
自分が勝つために相手を殴る、ということは同時に相手にも殴られる必然を
発生させているわけです。その関係性をお互いに了承している、という点が
私がこの道場に深く頭をさげるゆえんなのです。

先日、この人だけは失わないだろうという縁をなくしました。
これで私が六力使いになり始めてから落ち着くまでの期間にトータルで
関わった人は誰一人いなくなりました。

きっかけは些細なことでした。
株をやりたい彼に、同じくやりたい私は自分の勘がうずいた銘柄と
それを探り当てるヒントを彼に話して一緒に探そう!としたんですね。
でも彼の答えは「そんなの自分じゃなくて御上にきけよ」でした。
私はそれにうまく答える言葉がなくて「御上を試すな」とメールしました。

彼は「たくさん栗をとりたいとしてどの山にあるか聞くようなことの何が悪いか、
自分で考えなきゃいけないことなら答えないはずだ」といい、
私は己の成長のために人としてまず仲間と協力して努力すべし、
逐一幼稚園児みたいに質問してはならないのだという思いを伝えようとして
すれ違い聞き入れられませんでした。

でも、私が本当に切れたのは
「ああ、ついに僕も君に切られる」という一文でした。
微熱で体調が悪いとおもって加減してたがこの言葉はないだろうという
彼の言葉に、私は返信しながら思いました。

「ねえ、覚えてないのかな?いつも笑ってたのはあなたなんだよ?」と。

「こんどうあやの日記のキレぶりやその返答ってさ、ほんとおもしれーと思って
俺はよんでるよ~。」という文章の10分の1にも満たないインパクトの言葉であなたは
切れたのに、あなたはそれ以上の言葉でぶつかれたひとをずっと笑ってきたんだよ?

それってどうよ?

私はもうこの人に戻れないなと思いながら自分が彼の因果応報のラインに
しっかりのっている自覚と、多分彼がそれに気づいていない現状にいたたまれなく
なりました。

私が語気を強めるとき、人との縁を切るとき
私はいつも覚悟しています。
自分にいつか咎が来ること、そして逆の立場に立たされること。
そのすべてを受ける日がきても自分が了承できるか確認し
さらに言葉を磨いて応戦する準備
そして敗れた場合の孤立する自分のシュミレーションをして言葉を投げています。

私もすべての行動やニュースにおいてそうしているわけではありませんが
あまりにも自分に因果応報が返ってくることを自覚していない人が多すぎます。
自分の精神が発動する刃が人を傷つけるとわかっていても
そうせざるをえない業のようなぎりぎりのやるせなさに到達することなく
平気で残酷なことをいう人と私はわかりあうことが出来ません。

私が武道に傾倒するのはひとえに
私が「すべての武器を楽器に」できないタイプの人間だからだと思います。
そして武道という戦いのカタチに道を見出して集まる人はやはり
物事や世界を理解するのに、
攻撃、という行動を解さずして達成できない業を持っているのだと思います。

間違ってるかもしれない、
相手を悲しませるかもしれない
だけど自分はこれをするしかないのだ、
でなければ己が己でなくなってしまうから。

己へのストイックな問いかけのない武術こそが危険です。
彼らは自分にとって何が大事かわからないから必要以上のものを
傷つけるのです。そして何事かを守ったつもりになってる。
己にとっての闘う相手を常に見定めることは己を保持し社会に対して必要最小悪
たらんとする自己への求道です。

私にとって許せないものは唯一つ、
洞察力が足りないのを棚にあげて
それで自分に攻撃や説教をせんと唾はく輩です。

なぜなら私は時に自分の栄誉とか、命まで問いかけて自分を追い詰め続けて
求道した御上とのガチンコな対話の日々と、そこから掬い取ってきた
自分の言葉にプライドと自信を持っているからです。
でもこれさえも永続的ではない。
慣れて許しの気持ちを持つ日さえくるかもしれない。
だからこそ、私はギリギリまで自分の気持ちの感触を確かめ続けることを
やめることが出来ないのです。

武道とはそんな業と業とのぶつかりあいだと私は思います。
お互いのやるせなさで通じ合うから敵を愛することができる。
己を知るために強くなろうとするしかなかった
戦いという概念を通過せざるをえなかった
そんなすべてを超えて人たらんとする姿勢に私は額づく。

武と舞とはお互いの身体表現を極める点でよく似ていますが、
しかし私はその鍛錬の先から闘いという二文字をはずすことが出来ない。

朝倉宗滴曰く
「武者は犬ともいえ、畜生ともいえ、勝つことが本にて候。」

女武士道Vivienne_Alice、生き抜く限りは勝ち名乗りです。

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