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2006年10月20日 (金)

どうやら私はウツらしい。

どうやら私はウツらしい。

という見地から自分を分析してもいいのかな、
そんな心の余裕が出来てきました。

最近考えていたこと
「AさんとBさんとCさん、鑑定してほしいって言ってたけど
 いつできるかな?なかなか出来なくて申し訳ないな」
「ああ、やっと○○さんの展示にいけた」
「東雲会、どうしたらみんな集まって楽しくできるかな?
 もっと人集めなくちゃいけないのに」
「Dちゃん、ずっと支えてくれたのに、私が大変だからって
 鑑定してほしいのを我慢してるみたい、見てあげたいのにな
 こっちから声かけなくっちゃ。」
「○○君にモノおくるっていって出来てないや、だめだなあ、私。」

これにプラスして、
「お上に対しての姿勢はこうあるべき」とか
「こんどうあやはもっと頑張れ」とか
「六力はなれろ、こんどうあやは作家に専念すべきだ」とかね

うっせーよってそういう声にも真っ向から闘うわけで。
かといって、こんどうさん、これはどうでしょう?あれはどうですか?
とか細かく質問する電話やメールとかをみたり
それは依存しすぎだろっていちいち怒ったり

でも自分で歩けよ!!って切り離しても戻ってきちゃうのね。
こっそり日記読んでたり、動向をたどってる。
で、また怒ってのくりかえし。

一歩外に出れば
お店のおじさんに五分以上とっ捕まってしまうから、道変えて逃げ回ったり
同じフロアの宗教団体さんの集会に
「遊びに来い」と強く誘われたり

PCあければ
「そろそろ会える?」とか
「今はこんなで......」とか
でも何故か返せないの。だから良心が痛むわけで。

ああ、ごめん、応えてあげられなくてごめん......

すごくね、もっともっとって声を感じる
妄想かもしれないけど。
もっともっともっとって。

霊媒の先生が
「あやさまと話したいって方がたの念を受けて右耳の後ろが痛む」
といったとき
彼女は大丈夫だといったのにこっちは胸が痛くてすいませんとまた謝る。

で、これらの全部を引き受けたまま制作するのは
やっぱ普通に無理で
こりゃウツになるべよ?
と、判断したわけです。

オヤクメは、私の喜びでありやりたいことで幸せだったんだけど

だめみたい、
人間、自発的かつ能動的に動かないと元気ではいられないらしい。
ということがよくわかりました。

少なくとも、これらを無償でやるかわりに
本業でありお金を作るはずの制作活動が滞って
経済と将来に対する不安で精神が圧迫されている、という状況も
少なからず自分に拍車をかけているだろうね。

するとね、
じゃあそれこそ
お上に頼んで何とかすればいいじゃん?
とか
御上を信じて動揺しないで日々をすごせば何事もうまくいく
っていう人がでるんだけどさ

私はそういう考え方が反吐がでるほど嫌いなの。
人が考えたり悩んだり苦しむのも
人生に深い経験が必要だからもたらされる機能と感情なのであって
それを無いようにしようとか

悩んで自分で回答を出す前に
逐一「御上、答えはなんですか?あ、、今回は教えてくれないの?」
みたいなことを聞いて御覧なさいよ。
御上だって迷惑ですよ。

そういう人ほど、娑婆は修行のためというんだけど矛盾してるじゃない。
修行は困難を乗り越える行為なのに
自ら進んでロープ投げてくれだとか、困難と立ち向かわないで
一生を終えますと宣言してるようなもんだもの。

スピリチュアルでもハイヤーセルフでも信仰でも宗教でも何でもいいけどさ

生きることから逃げてんじゃネエよ。

小学生だって先生に
「いちいち聞くんじゃないの!?そろそろ自分で考えなさい!!」
って怒られるでしょ?
それで自分で考える習慣とか領域を学ぶじゃないですか。

だけど、それが御上ならすぐなんでも聞いていいとかって浅はかだと思うの。
だってそれって人が普通に生きていく以下になるってことだもの。
信仰は人の意識を高みに成長させるために存在すべきものであって
決して以下にするものではないと私は思う。

悩んで悩んで苦しんで、人に相談してもままならなくて
駄目だって思ったときに、思っても無い形で手を差し伸べられるから
人は御上に愛を感じるんだと思うし、本当にありがたいと思えるのだと思う。

私もこのタイミングで自分の症状をウツかもって現実的に認知することが
できたのは、それ以前にしてしまったら取り逃がす大切なことがいくつかあったような
気がしたんだよね。そうしないと大事な人を見落とすというか。

でも今はひと段落ついて丁度いいから
現実的な視点でカバーして大丈夫という余裕というか。
うん、まあ、早い話、ベストなタイミングで認知を変えられてることに感謝してる。


話は落ち着いたら詳しく書こうと思うけど、
タイガーリリーが自分を建礼門院徳子だと名乗ったのをしったとき
私のほうが立証も出来ない事象でビックネームを名乗る危険を感じ取って
自分の記憶を伏せようとしたことがあるんです。

そしたらカナダに在住していらっしゃる平家のご子息で降霊できる方から
いいタイミングで連絡があってそのご先祖様が彼女に「ぜひお伝え申せ」的な
テンションで書かされた手紙をメールしてくれたんですね。

で、これまたジャストなタイミングで帰国した彼女と新宿でお茶しながら
時子像についてご先祖様に質問したんですよ。

彼女、一度一族をたった一人で率いていくプレッシャーから
人知れず泣きながら嘔吐していたことがあったんですね。
それの極秘診断を承ったのが医者であったカナダの彼女のご先祖様であったとか。

一族のために身を挺して尽くし、下々の者にくまなく目をかけ
自らを嘔吐するまで追い詰めてしまう、
しかし、それゆえに、この人のためなら死ねる、という一族郎党を人望で集めた女、
それが平時子像であったとか。

まあ、わたしは申し訳ないほど情けない女ですが
自分の限界をいつも感知できない、というところは今も似てる気がします。

立証するものは何も無いです、
私にあるのはあまりにリアルな時子さんの記憶、
そして偶然に会い続ける平家の関係者と平家の前世をもつ人たち、
「私たちのことは忘れてかまわないから」といいながら助けてくださる
平家ゆかりの霊魂たちとの出会いが現実にあるだけ。

ただ、彼らに遭遇するたび、でもってもっと彼らに会うために
私はどんなにイタイ奴と思われてもこの記憶を隠してはいけないと
心のおくが訴えるのを感じる、ただそれだけです。

いいじゃん、形がなくったってほんとだって信じてることなんて
世の中にはそれこそほんとうにたくさんあるんだからさ。

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