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2006年8月29日 (火)

ハードヒットシックスストリングズ アンド マイセルフ


版木を彫るルートが未だ見えず
キッチンに座って曲を書いていた。

夜更けの静かな台所でギターを抱えていると
時々自分はずっと昔からこんなことをしていたような
錯覚にかられる。

換気扇の規則正しい音を聴きながら紫煙が昇るのを
時々確かめている。

六力のお勉強もタロットと花札も一通り終わって
易学の本に到達。
「易と人生哲学」という本を書かれた
安岡正篤さんという方にすっかりKOされる。
読むべきときに読むべき本に出会った気がした。

運命とは宿命にあらず、立命である、という老紳士の
深い教え。
本当に易を学べば、占いなどいらない
自分で卦を思い浮かべて対処法を考えられる。

つまり、運命を自分の力で切り開いてこそ
本当に易の理を学んだこととなるということ。
占星術でも、意志の力が超越した人はホロスコープが
通用しなくなるらしい。

ずっと最近の「すべて必然」という言葉に違和感を
覚えてきた。
すべてが決まっているなら、
頑張ることは無駄になってしまう。
まるでベルトコンベアーに載っているかのような
人生になってしまうではないか。

その答えをずっと探してきた。

正直この一年、特に27歳は版画どころではなかった。
それでも抵抗することはどうしようもなく遠回りな気がして
周りが何を言おうが耐え続けて自分を暴れ馬のように
振り回しまくるこの六力をいかに操縦してやろうかと
必死に考え続けてきた。

その渦中である女性に会った。
最初に会ったのは夏の池袋だった。
その人に本を渡してそのときは去った。

二度目は覚醒してからだった。
彼女もまた六力使いだった。
ただ私は公言して彼女はわかる人にだけ打ち明けている
という違いはあった。

おずおずと見える何かを話す彼女を見ていたら
この人が、というかこういう人たちが心置きなく霊媒話を
出来る環境をつくりたいなと思い始めた。

ゲイの友人に申し訳ないのを承知で書けば
私なりの新宿二丁目みたいなシェルターを作りたかったのだ。
それで六力会を開いた。

でも彼女は話の流れが世間話になってしまうと
自分を打ち明けられない。
それはひょっとしたら彼女の性格が起因するものかも
しれないが、私の中でもシェルターは答えではなさそうだと
いう事だけがわかった。

冬の日に浴槽に10cmだけお湯をはり足湯につかりながら
答えを探した。波紋だけが広がっていた。
私の心にも現実にも。

ある日たどり着いた答えはシンプルだった。
私が境界を超えるしかない、というところに行き着いた。

とにかく、六力霊媒である自分を超えて
版画家である自分を超えて
ここに存在するのはこんどうあやって一人の女である
っていう認識に周りが達するまで自分の力を引き上げて
全部を日常化して普通に人と接しない限り
ほかの見えない人の中では見える人は一般の個性となりえない
というのが結論だった。

一つわかれば、一つが操縦可能な個性になる
二つわかれば、それもまた
それを繰り返せばコントロールが出来るはず。
そうやって八ヶ月で100人あまりの人と関わってきた。

たった一つ呪文を決めた。
「アタシは最強になる」
最強という目標の響きと言葉の曖昧さが
丁度よく乗り越え切れないモチベーションの位置を
示し続けてくれる気がした。

ただ、彼女とは切れてしまった。
チカラが引きあがるうちに彼女がかつて自分の愛人だった
前世が見えてしまったのだ。
こーんな関係でサ、こんなセックスしとったぜ
なんてケラケラわらって身もふたもない話をファミレスで
したんだけど、ある意味これは転機だったかもしれない。

彼女の自分に対する態度が
日増しに男に対するそれに近くなった。
甘えられたり拗ねられたり.....
あからさまではなかったけど、段々とそれに耐えられなくなる
自分を感じていた。
こんな弊害が起こるなんて思わなかった。

こうやって離れた人は一人や二人ではない。
ただ自分にわかっていることは
これがこれから未来に起こる出来事の雛形に過ぎないと
いうことだ。たぶんそういう出会いや別れの数は
尋常じゃなく増えていく。
そしてたぶん誤解されることも増える。

だから呪文と一緒に泣くことも許した。

もうすぐ28歳の誕生日がやってくる。
布団の中からおめでとうを言ってくれた男はもういないから
自分で自分に何をしようか考える。
自分に何がしたいか聞いてみる。

いつのまにか御上の名前を出さずとも、
勘の領域で仲間と話せるようになった。

この前、お寺のカフェに仲良し夫婦と遊びにいった。
二人が真顔で言った。

「ライブやってみなよ」
「うんうん、やってみないとわかんないこともあるしね」

「ええ~?ノルマとかあるじゃんか」

「大丈夫だよ、サクラは集める。
 最近うちらライブやってないからさ、
 飲むきっかけ欲しいし」
「うんうん」

ノミネタ.....?
という疑問をよそに、うちでうっかりしずぎて
帰れなくなった嫁が眠そうな目でアピアってライブハウスを
教えてくれた。

それからウチのギターで二人が歌ったり
旦那の初ライブの話を聞いたりするうち
それもいいかもなと思い始めた。

打撃系六弦 美虎娘娘 って感じでいこうかなと思った。
英語に直しても HARD HIT SIX STRINGS 
わかりやすいし響きも悪くないかと思う。

三つくらいのライブハウスにデモテを送ることにして
結構真剣に曲を書き始めた。

28歳に決めていたことなんだけど
「作品をウル」ってのはもうやめることにした。
如何に売らずに作品をつくってセルアウトになるか?

ということの答えの一個がなんとなく埋まっている
気がしている。

作品を愛してくれている人がいるのは知ってる。
でも、皆が好きなのはイメージであって作品を所有してまで
愛してくれるのはマニアックな人たちだ。
少なくともこの国では。

という現実を受け入れることにした。
それはネガティブでもなんでもなく単なる事実だ。
自分に関するいろんなことが見え始めている。

両手を広げて眠ってしまった嫁をおいて
旦那と二人で一時間くらいさらに話をした

自分が一生背負い続けるしかない何かと直面して
生きていくということについて話をする。
その二日前にも別な男の人と朝までそんな話をした。

その人とはちょっと違う展開で話が進んだ。

一生かけて背負うと覚悟を決めたことを
一緒に背負うんじゃなくて、
ただ一緒にいるだけで救ってくれるかもしれない
誰かとであってしまったらどうするか?というとこまで。

そういう相手に心を動かされてしまったとき
実は自覚できないほどに自分がダメージされていたことを
知ってしまうんだよね、ということをしみじみ話す。

でもどうしようも出来ないことだけはわかっている。

なぜなら
それは自分の最大のメリットと表裏一体の関係に
あるからだ。

私はわかっている
それをあきらめたときに、自分の最大の個性が消える。
一緒にかたった彼らもわかっている。

その代償みたいに自分たちの周りに人が集まる。
そしてその孤独はますます意識されていく。

誰かが言った
「男に抱かれれば解決だろ?」
「弱いからこそ団結するんだよ」

もうその領域ではカバーできない孤独があることを
その人に私は説明することができない。

だから、自分の道は一人で生きるということに覚悟をきめる
それは言い換えれば
人を信用せずに人と関わって生きるということになる。

信用すればお人よしの私は、
その人が裏切ったときに大きく崩れてしまうのがわかってる
でも裏切りは必ずしも悪意ではなく仕方のない出来事として
おこる。

待ち合わせの時間に間に合わないのが必ずしも寝坊ではなくて
仕事とか人身事故であるように。

はかない約束をして、それが果たされなくても
それでも大丈夫な自分と、人と関わるのを好きでいる
自分を保ち続ける。それは決してネガティブなことではない。

それは版画家としての経験が呼んだことでもある。
一時熱烈なファンだと言ってきた人が離れていくのを
自然なこととして見送る術として身につけたものだ。

自分だってそうやってさまざまなアーティストの何かを
消化して生きてきている。だからこそ、長く続く縁に
深い感謝も出来るのだ。
集まってくれる人に、会いたいといってくれる人に。

ただこうやって夜更けのキッチンでお互いの孤独を
そっと明かせる人と時間が共有できることに同時に
安堵感を覚える。

徒党を組むとかじゃなくて
ただ、自分がしくじって崩れ落ちたら
骨をひろってもらえそうな気がするのだ。
「お疲れ。」と一言、いってもらえそうな気がするのだ。

そして私も人に対してはそれしか言えない人間だと思う。

鑑定をしたときに「当たってる」って言われるのが
いやだった。別にクイズをしてたわけじゃないから。
でも同時に、それでビジョンの精度を測って安心してた
自分もいた。

答えはここにある。
私は、その人が自分と向き合うのをほんのちっと
関わることで助けたいのだ。

宿命とは多分、言い換えるなら
その人が幸福を感じるポイントであり、
その人のリズムとか軌道であって
それさえわかればどんな人生を選んでも大丈夫だと
いうようにしたい。
だからいつも鑑定は出来る限り一発で決めたいと考える。
リピーターはいらない。

だれもが自分と向き合うのは怖い。
今まで幸せだと思ってきた何かを
大きくぶち壊すかもしれないから。

だけどそのことでしか得られない充実がある。
少なくとも私はそれを知っている。

だからこそ、結婚できないかもなと思う自分もいる。
目の前ですやすや眠るダーリンでも癒しきれない孤独と
具体的に向き合うことになる自分がどうやって
折り合いをつけるのかがまったくもって未知数だからだ。

まだ私がお彼岸意識でほげほげしてたときに
テトラ君に言われたことがある

「美虎ちゃん、
 たとえ自分のした何かが人に作用したと思ってもね、
 絶対にそうだと思わせちゃ駄目よ、絶対よ。」

その意味は今ならよくわかる。
人は自分の力で人生を生きなきゃいけないの。

自分が納得する生き方のためには
避けられないで突入する悪いこともある。

生きるとはつまりサッカーで言うなら
ピッチにたち続けること。

補欠でベンチを暖めても、退場になってもいけない。
でもたち続けるためには自分が敵でもあり味方でも
あることを自覚しなきゃいけない。

自分が得点したときに泣く相手があることを知っても
それでもボールをけることが出来るのか。
その勝敗を納得いくものにするためにはいつだって
本気でいるしかない。それが私の決めたことだ。

だから私には趣味がない。

いつも試されてる気がする
人が理解できない苦悩と領域をもっても
それでも人が好きだといえるのかどうか。

多分それは一生続く。

でも、いいとおもってる。
背負う何か以上に人と出会うことは私にとって
何にも変えがたい刺激と喜びなのだから。

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