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2006年6月26日 (月)

いつも自分がいなくなった後の世界を考えている。

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本当に。
そう、本当のことなのだ。

ネガティブな意味じゃなくて。
いや、最初はそうだったのかもしれないけど。
意味だけが変わってこの言葉だけが入れ物みたいに残った。

いつも自分がいなくなったあとのある人の世界が
如何に成立するかを考えている。

飲み会を始めた本当の理由はそれかもしれない。

私の大事な友達が友達同士で知り合って
彼らなりのリレーションシップを作って
何か新しく動き出すのをみたいのかもしれない。

私は開けっぴろげることしかできないから
ぶっちゃけた結果闘わなきゃいけなくなったことが多すぎて
だから自分のテリトリーに集まる人は
好き勝手に自分の何かをぶっちゃけても平気なように
細かい規則を口細かく作ったりしている。

私は、てか私の六力は人を変えるためにあるわけではない。
よく鑑定を終えると
「すっきりした」という言葉をもらえる。
私にできることは、その人が行く道の先にある石とかを
そっとどかしてみることかもしれない。
あくまで人生を進ませているのはその人自身なのだ。

だから結果的に相手が私を憎むような形ですべてが終わっても
別れてしまっても、その人が自分の人生に立ち返ってくれるならそれでいいのだと思う。

ただ自分はそういうことをどうしてか背負ってしまいたく なってしまう。

痛みの重さを測定して黙って受け入れようと考える。

そういう事態を避けるのではなくて。
多分私は背負うということに美学を感じすぎる人間なのだ。

SEEDS TOKYO IMPACTでライブプリントする日、
なぜか会場近くのコンビニでかにぱんを食べながら
友達が「あなたの使命感がとても心配だった」
といった意味がわかった。

たぶん、霊感のある友達が
私霊感があるんだよって話してたのを
ふーんって聞かれていたくらいの感覚で人はうけいれてるんよ
っていう実感を得たんだと思う。

四つ打ちのビートあふれるDJを聞きながら
「結局人が見てようがいなかろうが
私の彫るとか摺るってことは変わらないのね」
という思いがよぎったとき、なぜだかすごく泣きたくなった。

わたしはわたしにかえってきてると思ったんだと思う。

だからその後のダンスフロアではアホみたいに踊った。
祝杯。
私から私に対する何かのための。

ぼくのはなしをきいてくれ
わらいとばしてもいいから。


去年の11月から数えて一月に達していた
ある種の私の世界観はたとえるなら秘密のエレベーターから
昇ったサンシャイン60の屋上だったのかもしれない。

街のすべてを見渡せたらそこにいる人々の日々の小さな営みを
いとおしく感じるものなのだ。

一月の私は最高に悟っていた。

家に降り注ぐ陽光、小鳥のさえずり、洗濯物がゆれる午後
からすの鳴き声さえもいとおしいと思っていた。
御上とつながっている感覚のすべてが私に永遠の幸せを
もたらすと信じていた。

でも実際の日々は地獄のはじまりだった。

屋上で街を見てた私に、1Fから友達が叫んだ。
今すぐここに降りてきてと。
秘密のエレベーターにはくだりがなかったから
私は戸惑いながら無理だとこたえた
そうしたら彼らは去った。

追いつきたかったけど階段を下りる速度はあまりにも
ゆっくりだった。駆け下りるには高すぎた。

情緒を忘れた私は、ある意味共感とかの共通言語を
失っていた。大事な人と話している時でさえも。

私が降りないことにロマンとか物語を感じる人もいた。
愛されない孤独と愛される孤独は背中合わせだった。
でも空想の冷たい誰かを自由に恨むフレキシブルな感覚に比べ
愛してくれる具体的な人々に自分から線を引く冷酷さは
リアルなだけにより痛かった。

結局、残ってくれたのは
私が降りてくるまでを辛抱強くまっていてくれた
人たちなのかもしれなくて。

私の降りている階段が1Fまでつながってることを知っていて
なにより私が降りたがってたのを知っていた人たち。
もしくはすでに降りてきた人たち。

そんな人たちが新宿で50年続くお店の
最上階を埋め尽くすまで集まった。
「元気?」
「大丈夫?」
「久しぶり!」
「前世見てほしいんだ」
素直で率直で、六力あるからってあやはあやじゃんて言う人たち。

その中でも、頻繁に激励のメッセージをくれた戦友が
誕生日を迎えてた。

唄を歌ってみた。
ブルーハーツのチェインギャングを。

それはありがとうであり
ただいまであり
なにかの始まりだった気がする。

尺八吹くよ!っていってくれなかったら成立しなかった会
あやさんも歌う?って聞いてくれなかったら歌わなかった歌
私もこの人たちの宇宙に引っ張られる惑星の一個なんだと
おもった。

ぼくのはなしをきいてくれ
じっかんこめてはなすから


人が幸せを感じて生きるのに悟りなんか要らなかったよ。

自分が何がしたいって心の真ん中から叫ぶ声に忠実であれば
世界の真ん中が動いてくれるんだ。

人が不完全な身体を持っているのは、
きっと得るってことを最大限に楽しむためなんだ。
そのために喪失は痛く、
得るために加速させられた情緒が動き出す。

そんな身体は魂の永遠に対して150年ももたないから
精一杯もがいて楽しんで使い倒してしまえばいい。

そして死ぬ間際に頭に走馬灯を走らせて
自分の人生の意味を知ればいい。
それで人は十分自分の人生に満足できる。

悟りなんかいらない。

悟って幸せになりたかったら山にこもって
自身に何も求めぬ樹木と会話して、経験談を聞きに来る
無害な信者だけを相手に庵を結べばいいのだ。

でも私はそんなのは嫌。
東京にとどまってタワレコとかHMVとかに行って
友達と呑んでご飯して馬鹿騒ぎをしたい。
そう思ううちに私の足は1Fのフロアを踏みしめていたのだ。

ロックとは喪失の美学だと思っていた。
たくさんの音の可能性の中で楽器をそぎ落とし
叫びとかノイズとかメロとかのポイントを絞るように

悟りを捨てて愛しい俗世の垢にまみれようと決めたとき
初めて私は自分の魂もまたロックなんだと思った。

日常が戻ってきた。
いたらない私が戻ってきた。
瑣末な問題がたくさん待ち構えていた。

それでも生きていることは素晴らしいと感じてる。

べたべたして
時々「ぶっ殺す」とかおもって
そんでも好きになる
人を愛するってことをしっかりと捕まえる

美虎、俗世の垢にのまるるために神格捨ててござ候。

結局私に残ったのは
ロックンロールと
表現すること以外には生きていくことが出来ない
アートに魂うっぱらっちまった私。


でもそれがたぶん最高にいい。

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