受話器のフックをもう何度ももてあそぶようにいじっている。時間はすでに30分以上経っているはずだ。トモユキはまるで篭城するかのようにこのコンビ二脇の電話ボックスに滑り込んでコーヒーの空き缶にタバコの灰を落としている。
道路に向かい合わせのコンビニのガラス壁のマガジンラックから怪訝そうな視線を感じると、彼は何とはなしにボタンを押すフリをする。寄りかかっていたガラスのひんやりとした冷たさももうすっかり背中の体温となじんでしまった。三本目のタバコに火をつけたとき、彼はボックスの上部に充満した紫煙をよけるかのようにしゃがみこんだ。
「俺はいったい何をしているんだろう?」
何とはなしに彼は思った。そしてここ数日の自分の日常を思い返した。日々がささやかにずれている。彼はその違和感を言葉にしてみた。
断片が交錯していく....断片....それはつまり風景。
歩くたびに視界の些細な出来事が目に留まる。それは頻度を増していき、風景が逐一写真のように切り取られてしまい何かを強く思わずにいられない。彼はそのたびに立ち止まっては小さくうめいた。彼は少し苦しんでいた。
まるで路地のすべてが何かを自分に訴えかけているような、何気なさで通り過ぎることがまったくもって許されない感覚、とでも言おうか。最初のうちは楽しむこともできたのだが、その感覚に彼はだんだんと精神のオーヴァーフロウを引き起こしてしまい、彼はついにコウコウと輝く公衆電話を避難場所にして、コーヒーを片手に逃げ込んでしまったのだった。小ぶりな缶に閉じ込められた液体はすでに彼の体内に吸収され尽くし、彼はこうして次の一手を講じることもできないまま、当てもない篭城を続けていたのだった。
そして、昨日の女の肩を思い返していた。
「本を返したいのね」
そういってぶしつけに電話してきた女が家に上がりこんできたのは、夜半22時を回ったあたりだった。本を机の上にちょこんと置いて、取り留めなくストライプスのセブンネーションがどう....とかという話をしているうちに彼は時計の針が0時に近くなっていることに気がついた。
「そろそろ、
終電じゃね?」
おもむろにトモユキが立ち上がって本を棚に返そうとしたとき
女は彼から一切の視線をそらさずこう言った。
「あのね、私、
太ももの付け根に
刺青
あるの」
「....................................。」
それは彼にとってさしたる興味ではなかった。
しかし
息の呼応が静かに部屋に響いていた。部屋の中で唯一腕時計の縁が光っているのがわかる。昨日の雨の余韻なのかほんの少し湿った布団の上、トモユキは自分の身体のじんわりと汗ばんだ感触がその上に違和感なく溶け込んでいるのを感じていた。
上に乗った女が自分の腹の上にそっと手をおいた。ブレスの角が皮膚をすこしかすった。女がつぶやくように言った
「.....いい感じよ。..........とってもいい気分。
でもね、
愛しているといえないところが
辛いところね。」
そういって言葉を切った。返答を待っていたのかもしれない。しかし彼は窓のほうに目を向けたきり曖昧に笑ったままにした。そして明け方に帰った女を送ってまた眠り、夕方になったころに散歩に出かけた彼はその途中で違和感に遭遇したのだった。
女を思い出すときは、肩ぐちから思い出すようにしている。ほんの少し、熱を帯びた肩だった。それ以上の特徴は思い出せなかった。
道路を巡回パトカーが通り過ぎたとき、なんとなくばつの悪さを感じた彼は誰かに電話してみることにした。メモリをたどろうと携帯をあけたとき、なぜだか急にユージの顔が浮かび空で覚えているその番号に電話した。彼とは年に数回、友人のライブを見に行く席でよく会う。
3コール目で程なく彼が出た。少しけだるげな声の向こうから話し声がする。
「なんだよ、外かよ」
「いや、お笑い見てんだよ」
小さく息継ぎみたいな音がした。タバコを吸っているのだろう。
「お前こそ、どこにいるんだよ?」
「うん、いや....電話ボックス」
「はあ?」
トモユキは言葉を捜したがいい言葉が浮かばなったので、結局いきなり話し出すことにした。車のタイヤがアスファルトを擦っていく音が断続的に響いている。
「あのさ、なんつーのかな、日々が強烈なんだよ。」
「何が?」
「なんつーか、ほら、あるじゃん、何を見ても何かを思わずにはいられないっつーの? そんなのがさずっとあってさ、とまんないんだよね、なんだか。何みても何かあるんだよ、 注目とかそういうんじゃなくてさ、なんつーの?」
なんつーの?これ?俺、ねえ?
とざされた空間の閉塞感は時々感情を真空にするよなとトモユキは思い、同時に今これを聞いているアイツは何を考えているんだろうと彼はユージの反応を待っていた。
煙を吐く音がする。少しの沈黙のなか、ユージが口を開いた。
「ストロベリーフロートオンザカフェラッテ。」
「はあ?」
予想外の答えに、トモユキは缶に落とす灰の位置を間違ってしまう。
「ファーストキッチンのさ、ドリンクなんだよ。俺、あれ好きでさ、でも一人だと頼みづらいわけ。だからね、女と入ったときしか頼めないの。でも飲みたいからさ、すげえ考えるわけ。するとさ、そのことばっか浮かぶのよ、まあなんか浮かんだだけなんだけどさ」
「.......なんだよそれ。」
答えもわからなかったが、そもそも自分も何のために電話をかけたのかということすら曖昧なことに気づき、トモユキは黙った。ユージは二本目のタバコに火をつけたらしい。
感じすぎて疲労した神経が麻痺を起こしたのか
もはや自分が求めていたのは答えでもなくこの疲労を決定付ける何かだったのかも知れないと彼は思った。
「感じすぎてもう何もない感じ」
ほんの少し絶望に似せたトーン
疲れたと言いかけたとき、ユージが間髪いれずにつぶやいた
「サイレンス」
「は?」
「何もねーんじゃなくてさ、ただ静かなんだよ。」
いつの間にかTVの笑い声が消え、ユージの声が響いていた。
車のライトが坂道に呑まれていく。腕時計の光のことをほんの少し思い出していた。静けさをざわつかせた心の何かに思いをめぐらせたが、結局すべてがめんどくさくなり、その声のトーンの祈りのような調子を払拭したいと彼は願い電話をきることにした。
受話器を置いてから、コーヒーの空き缶を三度振った。吸殻がたてる静かな金属音がする。
あと何度
あと何度祈ることをやめたら
この世界は終わるのだろう?
あと何度?
そうつぶやくとトモユキはすべてが馬鹿馬鹿しくなり電話ボックスを出た。陸橋を渡ると川の変わりに流れている二本のレールの向こうで空が白んでいた。
ただその状況を受け入れたとき彼はつぶやいた
「愛しているのかな...........?」
世界、といいかけて
「女」といいなおした。
漠然とした価値観よりも具体性が欲しかった。
愛する対象にするにはちょっと世界はでかすぎる気がした。
ほんの少し汗ばんで熱を帯びた肩を思いながら、女を愛することも世界を愛するということも本質的には大した差はないのではないかと彼は思った。
風景は静寂を取り戻していた。
彼は再び眠ることにした。